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【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年6月4日(軽井沢にて)
今日はある目的の為にリツコと一緒に軽井沢に行きました。
それはリツコの夢だった「軽井沢写真館」で撮影することでした。
「軽井沢写真館」はアンティークなウエディングドレスでセピアの写真を撮影してくれます。
昔ながらの手焼きプリントで百年以上保存ができるといいます。
店頭にサンプルとして「キンキンケロンパ夫婦」の写真が飾ってあります。
軽井沢に何回も遊びに来ていたリツコは、この写真館がとっても気になりいつか自分も撮影したいという夢をもっていました。
その夢を叶えるために今日軽井沢にやってきました。
そして二人だけの結婚式の意味もありました。
まず衣装選びからリツコは一番人気の貴婦人のドレスを選びました。
ドレスに着替えるととっても魅力的でした。
さて、俺の衣装はというとなんと男子は種類がありません。
「姿三四郎」の衣装しかありませんでした。
下駄、袴というスタイルです。

「看板力」は所長が気になる看板を撮影して掲載します。
都心が多くなると思います。
撮影場所:渋谷東映
看板タイトル:映画 ブレイブストーリー
※人気ですね。
ストーリーは、
ワタルはどこにでもいる平凡な11歳の少年。
ある夜、親友のカッちゃんとふたりで幽霊ビルの中を探検をしていたワタルは、階段の上に浮かぶ奇妙な扉を見つけ、その中へ入っていくミツルの姿を目にする。
ミツルは、成績優秀、スポーツ万能、おまけにルックスもいいと評判の隣のクラスの転校生。
女の子に騒がれても、笑顔ひとつ見せないクールで大人びた少年だ。
「あの扉の向こうには何かあるの?」と問いかけるワタルに、ミツルは真顔でこう答えた
「扉の向こうに行けば、運命を変えられる、ひとつだけ願いが叶うんだ」
いつもと同じように始まった一日が、いつもと同じように終わっていたら、ワタルはその扉を開けることはなかったかもしれない。
しかし、ごく普通の平凡な幸せは、何の前触れもなく突然崩壊した。
大好きだった父親が、家族を捨てて家を出ていってしまったのだ。
あまりのショックに母親は倒れ、救急車で運ばれていってしまう。
慌しく病院の奥へと運ばれて行った母親の姿を見つめていたワタルの胸に、ひとつの思いがこみ上げた
「こんな運命、間違ってる!」
その時、「運命を変える」というミツルの言葉が、ワタルの脳裏によみがえった。
その言葉を信じ、ワタルは幽霊ビルへと向かったのだった。


「看板力」は所長が気になる看板を撮影して掲載します。
都心が多くなると思います。
撮影場所:渋谷東映
看板タイトル:映画 バルトの楽園
※マツケンさん出演
楽園はがくえんと読みます。
ストーリーは、
1914年、第一次世界大戦で日本軍は、ドイツの極東根拠地・中国の青島(チンタオ)を攻略した。
ドイツ兵4700人は捕虜として送還され、日本各地にある収容所に収められる事となる。
厳しい待遇が当然な収容所の中で、奇跡の様な収容所が徳島にあった。
板東俘虜収容所の所長を務める会津人の松江豊寿(まつえとよひさ)は、陸軍の上層部の意志に背いてまでも、捕虜達の人権を遵守し、寛容な待遇をさせた。
捕虜達は、パンを焼く事も、新聞を印刷する事も、楽器を演奏する事も、さらにはビールを飲む事さえ許された。
また、言語・習慣・文化の異なる地域住民の暖かさに触れ、収容所生活の中で、生きる喜びをみいだして行く。
そして、休戦条約調印、大ドイツ帝国は崩壊する。
自由を宣告された捕虜達は、松江豊寿や所員、そして地域住民に感謝を込めて、日本で初めてベートーベン作曲『交響曲第九番 歓喜の歌』を演奏する事に挑戦したのであった。


【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年6月1日(運動会)
今日は息子の学校の運動会です。
早朝席取りに行きました。
高崎からリツコ一家が弁当持参で来てくれました。
息子は期待に応えられず、徒競走ではビリでした。
昼食の時間になり弁当を食べました。
手作りの弁当なんて久しぶりで感動しました。
息子の活躍は全く無いまま運動会は終了しました。
こんな運動会を見るためにわざわざ高崎からでてくるなんて・・・。
と思ったに違いありません。
家に帰ると息子の同級生が大挙押し寄せました。
いつも溜まり場になっているからでしょうか・・・。
同級生らは、リツコと息子達の存在を不思議に思っていました。
親戚という説明をしました。
リツコは翌日用事があったため、今日は日帰りです。
あわただしく一日は過ぎて行きました。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月25日(リツコ帰京)
結局息子は一口も口に入れませんでした。
食べるとお別れということがわかっていたからです。
「来週は運動会だからリツコにお弁当をつくってもらってきてもらうんだよ。」
と息子にいうと、食欲が出てきたようです。
しかし、時間なのでレストランから出ることになりました。
有楽町で別れることにしました。
息子はとっても寂しそうでした。
2002年5月28日
今日は高崎でリツコとデートです。
今日はリツコを驚かせることがあります。
リツコは髭が好きではありませんでした。
俺はずっと髭を生やしていました。
でも今日朝髭をそりました。
若返った気がしました。
俺の顔を見たリツコはびっくりしていました。
今日は「ココボムカフェ」に行きました。
ここはリツコがコンパで使う店でした。
従業員に「新しい彼氏?」とつっこまれていたリツコでした。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月25日(リツコ上京)
リツコと俺は一安心です。
夕方になりそろそろ帰る時間になりました。
お土産を選びました。
「あざらしの抱き枕」にしました。130センチくらいあるでしょう。とっても大きいです。
それをひとり一個買いました。
帰りの電車では不思議な集団になっています。さらに場所を取って邪魔な人たちです。
横浜に立ち寄り食事をして帰りました。
出だしは不調でしたがなんとか一緒に帰ってこれました。
家に無事に着きました。
子供達は疲れて寝てしまいました。
俺とリツコも疲れがどっとでました。
お酒を少し飲みました。
やがて二人はリビングのソファーで愛し合いました。
そこでハプニングです。
避妊具が子供達の寝室にあるので取りにいけませんでした。
コンビ二に買いにいくのもしらけることになります。
そうこうしているうちにリツコの下の子が寝ぼけながらリビングにきました。
2002年5月25日(リツコ帰京)
朝になりました。
昼食を一緒に食べてそのままリツコ達は高崎に帰ることになりました。
有楽町のバイキングレストランに行きました。
ここでもわが息子のわがままが始まりました。
「食べたくない。」と言っています。

「ネット力」では所長の独断でチョイスしたデザイン的に優れたサイトを紹介します。
http://www.ketchup.jp/
KETCHUP.JPは、「逆さケチャップ」をはじめ、ハインツのトマトケチャップ商品に関する最新ニュースやケチャップにまつわるいろいろな話題を発信する、ケチャップ総合サイトです。
シンプルなデザインでまとめられています。
※ハインツのお守り「ピクルスマーク」
ラベルに描かれた緑のピクルスマークが何を意味するかご存知ですか。
時は遡ること1875年の冬、ハインツ社の前身、ハインツ・ノーブル・アンド・カンパニーは、ピクルス用のキュウリを大量に調達したため資金繰りが悪化、金融恐慌が追い討ちをかけ、倒産に追い込まれます。
創業者H・J・ハインツは翌年1876年に決意も新たに再スタートを切ります。そのとき前社での悲痛な経験を教訓にするべく、新会社のお守りとしたのが倒産の原因となったこの「キュウリのピクルス」でした。ハインツケチャップのラベルには今なお大切なお守りとして「ピクルスマーク」が印刷されています。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月25日(リツコ上京)
しかし、息子は店の中に入ろうとしません。
息子抜きで食事をしました。
食事が終わってリツコがわが息子を一緒に行くように説得しましたが応じません。
リツコが俺を呼びました。
リツコは泣きながら言いました。
「こんなにわがままで人の気持ちを考えない子供はじめてだよ。私はこの子の母親になるのは無理。あなたは父親として息子を全くコントロールできてない。もう別れよう。」
このままでは収拾がつかないので俺はリツコに言いました。
「リツコとリツコの息子たちで先に入場してきて。俺はもう一度息子を説得するから。それで駄目だったら俺達は帰るから。その時はリツコもそのまま高崎に帰ってください。」
リツコ達は先に入場しました。
俺は息子を説得です。
「とりあえず行くだけ行って、いやだったら直ぐ帰ろう。ちゃんとお別れしよう。もう二度と会えなくなるんだから。」
息子は承知しました。
やっと八景島シーパラダイスに入場です。
早速先に入場しているリツコにメールをして今いる場所を教えてもらいました。
順路に沿っていくのでなかなか追いつきません。
携帯も電波が届かず不通です。
やっとの思いで合流できました。
息子の機嫌がよくなって3人で仲良く遊んでいます。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月24日(子供だけ上京)
今日はリツコの息子二人だけが上京してきました。
リツコは夜飲み会があるため翌日の朝上京することになりました。
子供3人の面倒を俺一人で見るのはこれまで生きてきてはじめてのことです。
最初は無理かなと躊躇しましたが、息子もリツコの子供達が泊まりに来るのを楽しみにしています。
不安になりながらも受け入れました。
晩御飯はリツコの子供達の持込のミスタードーナツと駅前で買ったケンタッキーフライドチキンを食べることにしました。
食事を終えると子供三人でお風呂に入れました。
お風呂はむちゃくちゃになっていました。
入浴シーンの写真をリツコにメールするとびっくりしてました。
仲良くなり過ぎってことですね。
2002年5月25日(リツコ上京)
翌朝リツコが上京です。
俺は東京駅まで迎えに行きました。
その間子供達はTVゲーム三昧です。
リツコが子供達と合流して「今日こそは皆で遊びに行こう」と決意した俺でした。
結局「八景島シーパラダイス」に行くことにしました。
電車に乗ったのですが結構時間が掛かりました。
わが息子が疲れたためぐずりだしました。
「行きたくない!帰る。」
電車はやっと駅に到着しました。
息子は歩こうとしません。
ちょうどお昼だったのでラーメン屋に入ろうと提案しました。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月18日(宿泊後)
一気に5人家族になるのです。
大家族です。
息子は受け入れたようです。
「みんな仲良しなんだよね。楽しいよねきっと。」
息子はその時から大人は大人同士、子供は子供同士という変な考え方になってしまいました。
2002年5月19日(携帯電話購入)
俺はついにPHSから卒業することにしました。
今日携帯電話を購入することにしました。
機種はリツコと同じauにしました。
カメラ付き携帯の最新版です。
写真をとって早速リツコに送りました。
2002年5月23日(お台場デート)
今日はリツコが東京に出てきました。
お台場でデートしました。
とくにハプニングもなく、まったりとした時間を過ごしました。
リツコが帰る時間になってしまった。
少しでも一緒にいたいという気持ちから、帰りの新幹線に俺も同乗して大宮で別れることにしました。
遠距離恋愛ってやつですね。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月18日(宿泊後)
なんとか連れ出そうと画策しましたが頑固に動こうとしませんでした。
実力行使で全員外に出ました。
俺も出ようとしたところ息子は「行かないで!」と大泣きしました。
こんな泣きかたは今まで見たことがありませんでした。
今日はあきらめてリツコと息子ふたりで「ナンジャタウン」にいってもらいました。
リツコは今まで息子達と遊びに行くことはなかったのです。
息子を友人に預けてリツコだけでいろんな場所に出かけていたのです。
リツコの息子たちはリツコと遊びに行くことが夢でした。
それが叶ったのです。
とても嬉しそうでした。
さて、リツコ一家がいなくなった我が家では大泣きの息子がひとりいました。
息子としては家で皆でずっと遊びたかったのでしょう。
今までも遊びに来ている人が帰ろうとするとと引き止めます。
寂しいのでしょう。
あまりに大泣きしているので、時間はまだ早かったのですが一緒にお風呂に入ることにしました。
やっと泣き止みました。
お風呂に浸かりながら、息子に話しました。
「みんなで一緒に暮らしたら楽しくないか?友達と弟と一緒に暮らすのは毎日楽しいだろう?」
息子はうなずきました。

祐天寺にあるキクヤベーカリー
なんていっても開店は深夜0時。
おじいさんとおばあさんが2人でやっているパン屋さん、でも深夜1時に行列が出来るお店!
一応3時まで営業だけれど売り切れてしまうパンが多いそうです。
なぜ深夜営業なのかは謎です。
おじいさんが早起きだからという噂も・・・。
午後10時くらいには仕込みにはいらなければいけないので早起きってことはないでしょうね。
今日も深夜の行列は続くのでした。
キクヤベーカリーへの道のりは
駒沢通りを中目黒側から祐天寺方面に進む。
左側にスーパー三和が見えたら、その交差点を左に入る。
だーーっと進んで左側に見える赤いビニールの看板が目印。
■キクヤベーカリー
東京都目黒区五本木2-13-3
03-3712-7408
営業時間:深夜0:00-3:00(その日の体調と売れ行きで変動あり?)
定休日:日曜日
2006年07月08日09時10分11秒おめでたい投稿時間です。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月18日(宿泊後)
翌朝になりました。
息子たちは早速ゲームに夢中です。
リツコが朝食を作ろうとしています。
食材を買いに行こうかといいましたが、冷蔵庫の中にあるものだけで作るといいます。
ウインナーとたまねぎと人参でチャーハンを作ってくれました。
リツコの手料理を食べるのはこれがはじめてです。
おいしくいただきました。
リツコは台所も掃除してくれました。
続いてお風呂、そしてトイレ掃除もしてくれました。
リツコは几帳面そしてきれい好きなのです。
トイレ掃除も気合がはいっています。
洋式の便座のねじを緩めてはずします。
便座をとりはずしてその裏側まで掃除するのです。
こんな掃除の仕方は、はじめてみました。
家中ピカピカになりました。
今日はどこに遊びに行こうかとリツコと相談しました。
池袋にある「ナンジャタウン」に行きたいとリクエストがありました。
俺も息子も数回いっています。
息子は出かけないで家にいると言い出しました。

営業ツールの制作いたします。
雑誌広告
会社案内・カタログ・フライヤー・DM
展示会用パネル・ポスター・タペストリー
WEBサイト
展示会映像
など幅広く制作いたします。
様々な企業のサポートをしてまいりましたので、
ケースバイケースでのアドバイスなど対応が可能です。
効果的な営業ツールを制作いたします。
印刷費用を抑制する手段
CTP印刷(製版フィルムを使用しない印刷手法)
付け合わせ印刷(同じ用紙を使用する他社と付け合わせ印刷することで安価を実現)
の対応も可能です。
与えられた予算の中で最高のものつくりをいたします。
御社で外注のニーズがありましたら、お役に立ちたいと願っております。
ぜひ、お気軽に声をかけてください。
ご連絡お待ちしています。
担当である私のPRです。
【プロデューサー】
1989年〜1996年
ファッションブランドの広告・カタログ・ POP ・SPツールを制作。
その間ミュージシャンのCDの販促ツールの制作も行う。
1997年〜2005年
コンピュータソフトのマニュアルの制作・ローカライズを多数経験。
その間コンピュータプログラムの解説本の翻訳に携わる。10冊発売。バイオ企業の広
報支援として広告・カタログ・ WEBサイト・映像制作を経験。企業のWEBサイトの制
作実績多数。
2004年〜
Cool ×オトナをコンセプトにしたオリジナルライフスタイルブランド「ASTERISK」
を立ち上げ啓蒙中。
2006年〜
ブランディングを中心に企業の広報支援活動を行う。
情報建築家としてモノ造りをして行く。
紙媒体・ WEBサイト ・映像など様々な制作に対応している。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月17日(宿泊)
夕食は「つばめグリル」に行きました。
子供同士は打ち解けるのは早いです。
楽しい夕食も過ぎ、我が家に行くときがきました。
渋谷からタクシーに乗れば直ぐ着きます。
自宅に着きました。
息子はPS-2にはまっています。
早速子供たちはゲームを始めました。
家に子供が泊まりに来たのははじめてのことでした。
息子は興奮気味です。
午後11時を過ぎたので子供たちを寝かせることにしました。
なかなか寝つけないようで騒いでいます。
午前0時には熟睡したようです。
リツコはリビング、俺は別の部屋で寝ることにしました。
リビングで軽くお酒を飲みました。
二人ともいい気持ちになりました。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月17日(宿泊)
今日俺はこんなメールをしました。
「タイトル:牧師より
妻リツコは苦しいときも悩めるときも夫を支えることを誓いますか?」
リツコから返事が
「タイトル:牧師さんへ
誓います。」
俺:「では誓いのキスを」
リツコ:「(-3-)」
目をつぶったキスマークでした。
俺:「(^3^)」
冗談のようですが、半分本気でした。
二人の心は「結婚」の気持ちは固まっていました。
ただ子供が納得すればですが。
実は今日、リツコが息子二人を連れて上京することになりました。
子供同士を引き合わせるためです。
子供にはまだ説明はしていません。
仲良くなってから徐々にという考えでした。
午後8時前リツコと息子二人は渋谷駅に着きました。
俺は息子と改札に迎えに行きました。
すると子供が三人います。
もう一人はリツコの会社の同僚でシングルマザーヨシエさんの息子でした。
ヨシエさんは彼氏とふたりきりでお泊りデートのため息子を預かってきたようです。
高崎のシングルマザー恐るべしです。
子供同士初顔合わせです。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(はじめてのデート)
リツコは高崎駅まで車で迎えにきてくれました。
助手席に乗って出発です。
俺は高崎の居酒屋は全くわからないのでリツコのよくいく店「楽」に行くとこにしました。
ふたりだったのでカウンターのような隣同士に座る場所に案内されました。
「お疲れ様。乾杯!」とグラスを合わせました。
深夜の電話であれだけたくさん会話したのにもかかわらず話は盛り上がりました。
化粧室に行った俺はPHSからリツコの携帯にメールを入れました。
「俺より先に死ぬなよ!」
席に戻るとリツコが化粧室に行きました。
俺のPHSにメール着信です。
「あなたが死んだら私も死ぬ。」
俺は返信しました。
「リツコが死んだら俺も死ぬ。」
会話をしながらメールするという不思議な展開になりました。
あっという間に時間は過ぎ、午後10時になりました。
新幹線の終電に間に合わなくなるので店を出ました。
車に乗ったふたりは自然と唇を合わせました。
帰りの新幹線で缶コーヒーを飲みましたが、リツコのぬくもりがまだ残っていました。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(はじめてのデート)
7時に起きたので睡眠時間は3時間弱。
でもさわやかな目覚めでした。
今日の夜リツコに逢えるからです。
会社の仕事もさくさくとこなして午後6時くらいの新幹線に乗りました。
高崎まで一番早く着く手段として新幹線を選びました。
乗車時間は1時間程です。
午後7時過ぎに高崎駅の改札で待ち合わせです。
新幹線は高崎に到着しました。
改札を出たところで問題が発生です。
お互いに相手の顔を知らないのです。
実は、当時俺は携帯電話ではなくPHSだったのです。
写真のやりとりができなかったのです。
俺の特徴、「メガネをかけて髭をはやしている」ことを伝えました。
リツコの特徴、「茶髪、ロン毛、里谷多英似」。
該当する人が2、3人いました。
うーん。わからない。
目と目が合う。
でも相手は無反応。
じゃあこっちからアピールするしかない。
携帯に電話して出た人がリツコだ。
携帯に電話した。
携帯を耳に当てた女性がいました。
彼女がリツコか。昨日あんなにたくさんしゃべったのに顔の想像はしていなかったのです。
確かに里谷多英似だった。
幼馴染との再会のような気分になった。
最初の挨拶は「はじめまして」のはず。
でも「久しぶり」という台詞になってしまいました。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
それよりも「自分の為に生きていこう」そう決断したのです。
シングルマザーの友達もたくさんできました。
そして、子供をあずけあって夜な夜なコンパに行くようになったのです。
午後8時に目覚ましをセットしておいて、目覚ましがなったら寝るという徹底した躾を息子たちにしていました。
で、リツコはコンパに出かけ朝帰りをするという生活をしていました。
リツコはまだ29歳遊びたい盛りです。
やがてコンパで知り合った大学生と同棲するようになったのでした。
彼氏の親は大金持ちでした。
母親が、「息子を誘惑してだまそうとしている」と言いがかりをつけてきて引き裂かれたのです。
実家に戻された彼はリツコに対してストーカー行為をするようになりました。
リツコはストーカー化した元彼から逃れるため引越しを考えていました。
それが例のメールの理由です。
『私の名前はリツコです。小5と小1の息子達と三人で暮らしてます。今、転職と引っ越しを考えてます。なんなら住み込みの家政婦でもいいですよ。とりあえず電話で話しませんか?外回りだからいつかけても大丈夫ですよ。090********』

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
やがて仕事も順調になった頃、会社の上司と不倫の関係になっていました。
不倫関係がしばらく続いたある日、彼は体ひとつで家出をしてリツコのアパートに転がり込んできました。
同棲がはじまりました。
当然二人の息子も暮らしています。
彼は結局離婚して、リツコと再婚しました。
二人とも会社にいられなくなり退社することになりました。
彼は会社を辞めてから、なかなか長く仕事が続きませんでした。
しかし、派遣会社に採用されてから運気が上昇したのです。
高崎支店を新設することになり、そこの支店長に抜擢されました。
栃木から高崎に皆で引っ越しすることになりました。
会社の業績もぐんぐんのびていきます。
しかし幸せは長く続きませんでした。
旦那が突然家出をして帰ってこなくなったのです。
ちょうどその時彼女は妊娠していました。
彼女は悩んだ挙句、おろすことにしました。
そして離婚しました。
彼女は×2になりました。
この時、彼女から結婚願望は消えたのです。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
リツコは今は群馬県高崎市に住んでいますが、実家は栃木県です。
両親とうまくいかなくて高校から独り暮らしを始めました。
やがて高校を中退して働き始めることになります。
そして母親が脳溢血で倒れて植物人間になりました。
母親には500万の借金がありました。
それをリツコが追うことになったのです。
リツコは借金返済の為に一生懸命働きました。
当時付き合っていた彼氏の子を身ごもったため、出来ちゃった結婚をしました。
旦那の仕事も好調で借金も返済が終わって、一戸建ても購入しました。
二人目の子供も生まれました。
しかし、幸せな生活は長くは続きませんでした。
旦那の暴力がだんだんエスカレートしていったのです。
やがてストレスからかリツコは耳が聞こえなくなり、障害者手帳を貰うようになりました。
リツコは結婚生活に限界を感じて離婚しました。
離婚後、息子をふたり引き取りました。
リツコは必死で働きました。
住む部屋が無くて親子3人でラブホテルで生活していたこともありました。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
家政婦の息子に対する接し方、というより接触を拒否していたのです。
息子が話しかけると無視をしたり、「遊ぼう」といっても断ります。
時間のほとんどを買い物にあてていました。
彼女が考える家政婦の範囲は息子のお守りは入っていなかったのです。
息子が唯一接触する大人の家政婦から無視されて、さぞかし人間不信に陥ったことでしょう。
実は彼女が息子に対して関わらない様にしていた本意はべつの理由がありました。
その理由は、焼酎バーの店主と不倫関係にあったことでした。
店主に俺と恋愛関係にあると思われると困るから情を与えないという過剰防衛にでたようです。
俺は家政婦を雇うことは諦めました。
真剣に息子と接触してくれる人でないと安心して息子を任せられない。
こうなると再婚しかないと考えました。
それも同年代の子供がいるシングルマザーがいい。
大人同士、子供同士で遊ぶことができる。兄弟もできる。
でも出会いは全くありません。
わらをもすがる思いでエキサイトフレンズに登録して掲示板にメッセージを公開しました。
その返事第一号がリツコだったのです。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
12月に渋谷区から開業資金1500万円の融資の斡旋が決定しました。
あとは保証協会の審査待ちです。
社会貢献可能なコンセプトでの出店計画だったので自信がありました。
しかし結果は「保証しない」でした。
本業の会社の評価をしたようでした。
本業はデザイン会社なので1500万の融資は必要ないし返済が出来ない可能性があると判断したらしいです。
ひと月前、会社は1000万融資を受けたばかりだったこともあり不要と判断されたようでした。
4月にオープンを予定していましたが残念ながら諦めることにしました。
ここでプロジェクトの中止です。
採用した女性には会社の総務・経理をまかせながら家政婦として息子の面倒を見てもらうことにしました。
4月以降、彼女は家政婦として息子の面倒を見はじめました。
息子の異変に気がついたのはひと月後の5月でした。
息子は極端に鬱状態になっていたのです。
5月の黄金週間に実家の北海道に帰省したとき、祖父・祖母に対する態度も一変していました。
東京に戻って家政婦に確認したところとんでもない事実が発覚したのです。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
9月に入院して11月に退院しました。
その退院祝いで渋谷にある焼酎バーにいきました。
店主が外出した後、店番をしていた女性と話をしました。
彼女は昼間家政婦をして、夜から週に何回かこの焼酎バーでバイトをして生活をしているようでした。
家政婦先との折り合いが悪いため、やめることを考えているようでした。
同席していたマツモトさんが、俺が4月から勤務可能な家政婦を探していることを伝えました。
彼女は興味を示しました。
そこで、後日面接をする約束をしたのです。
数日たって面接することになりました。
面接の時、彼女の夢を聞きました。
どうやら店を持つのが彼女の夢のようでした。
当時、俺は和食で低カロリー料理中心の居酒屋をつくろうと考えていました。
俺は彼女に、そのプロジェクトを進行しながら家政婦をやることを提案してみたのです。
彼女は喜んで乗ってきました。
採用することにしました。

K2の黒田征太郎さんと落語家の桂三枝さんがコラボレートした「落語絵本」シリーズが面白いです。
この落語絵本、実際に三枝さんが寄席でやっているネタをもとにしており、私たちにとって身近な動物達(今までに亀、鯛、犬、豚、ワニ!、カラス)をモチーフにしてストーリーが展開していくユニークなものです。
おかしくてちょっぴり泣けるイイお話ぞろいです。
黒田さんの絵も三枝さんに刺激されてかいつにもましてユーモラスです。
ファンならずとも一見の価値アリです!
「悲しい犬やねん」は野良犬のボスの娘が、飼い犬に襲われ子を宿してしまったからさあ大変。
犬の仁義に反すると目の敵にされるが…。
ペットと人間の関係を問うお話。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
結局40日間の入院生活でした。
その間、毎日午後には会社に出勤していました。
40日後、20キロの減量に成功して血糖値も正常値になりました。
奇跡の復活です。
翌年の3月末、息子との同居生活が始まりました。
4月の新学期、全校で転校生は100人いました。
クラスには5人いました。
これで転校生という理由でのいじめはないと安心しました。
しかし、別の理由でいじめが存在しました。
それはクラス内でうちだけの特別なこと「離婚」。
そしてシングルファザーだったことでした。
不覚でした。
南柏の小学校ではクラス20人中5人が離婚家庭でした。
しかし目黒区のこの地域は、父母に子供数人というのが標準です。
シングルマザーでは家賃が払えないのでこの辺に住むのは無理でしょう。
必然と死別以外の片親の家庭はないのでした。
シングルファザーはありえない環境だったのです。
息子との二人暮らしを想定したとき、仕事中心に考えるしかありません。
仕事に穴を空けないために家政婦を雇うことを考えました。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
渋谷の会社のそばにも小学校があるがクラスは2クラスしかありません。
転校生がいじめを受けやすい環境です。
そこで目黒区にある帰国子女の受け入れを積極的に行っている小学校にすることにしました。
転校生がやたら多い学校なので転校生という理由でのいじめは存在しません。
学区内にマンションを探しました。
入居したのは9月でした。
最初はふとんもなかったのでハンモックを購入してそれで寝ていました。
6月から一人暮らしを始めましたが、かなり生活が乱れました。
毎日酒びたりでした。
不摂生がたたって体重が増えました。
ついには血糖値が500を超えて病院に入院しました。
9月中旬でした。
引越しして2週間で入院です。
入院したのは目の前の病院でした。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
息子が4年の終業式は南柏で迎えられるように、住民票の移動は3月まで待つことにしました。
1月1日、元妻は女の子を産みました。
俺の戸籍に入れないようにすることができると聞いたのですぐ裁判をしようと話しましたが、元妻は突然出生届を提出したのです。
娘の健康保険証が欲しいためでした。
いまさらになったので元妻から裁判を起してもらって娘の戸籍を抜く裁判をしました。
出廷は1回で済みましたが調停委員にねほりはほり聞かれました。
俺が家をでたのが6月でした。
翌年に息子を引き取るマンションを探し始めましたが、まず学校を決めないといけません。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
俺は元妻の母親に事実を話しました。
ケンジと別れなければ離婚すると迫りました。
「避妊行為をしていないようなので、そのうち妊娠しますよ」と告げました。
予感は的中したのです。
交際するようになって一年後、元妻はケンジの子を妊娠しました。
おろす気持ちは全くないようです。
しかも元妻は、離婚する気は全くないようです。
生まれてくる子は俺の子として育てるつもりなのでしょうか。
妊娠6ケ月の時、俺は自宅を出て西麻布にウィークリーマンションを借りて住み始めました。
離婚は決定しました。
その時息子は小学4年生でした。
本来ならば母親と暮らすのが息子のためなのですが、ケンジそして元妻のお腹の子と一緒に暮らすのは不憫に思いシングルファザーとして息子を育てていこうと決心したのです。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
なぜこの状態を放置したかというと、元妻は息子に対しての虐待がひどかったためでした。
息子を俺に重ね合わせているのでしょう。
ことごとく暴力、いじめなどひどかったです。
叱り方も普通じゃなかったです。
俺の目の前でも平気で息子を殴る、手が痛くなると蹴りを入れます。
さすがに俺は止めるが俺がいないときは誰も止めるひとがいないのでやりたい放題でした。
息子は痣だらけ。円形脱毛症にもなりました。
ケンジと交際をはじめてから、息子に対してやさしく接するようになってきました。
ケンジと妻が交際している事実を知った時、離婚を考えましたが息子を守るため交際を黙認することにしました。
この時点からエスカレートして自宅に連れ込むようになったのでした。
ケンジは元妻に調教されていて何でもいうことを聞くしもべとなっていたのです。
さらにエスカレートしての一泊旅行です。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
妻は息子に部屋に入ってこないようにときつく言っていました。
そんな生活が続いたある日、元妻はケンジと伊豆の温泉に一泊旅行をする計画を実行しました。
息子が登校した後、息子の晩御飯をあらかじめ準備しておいて、朝から元妻はケンジと伊豆に向かったのです。
深夜帰宅した私はおどろきました。
翌朝、息子の朝食を作り学校に行かせました。
息子は昼は学校の給食があるので晩御飯までに帰宅すれば問題ないだろうと妻は考えました。
この時点で離婚するしかないかなと当時は強く考えました。
だが息子はまだ小学校低学年、「離婚しないで」と泣きついてきました。
結局離婚を思い留まったのです。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
一年間チャット上で交際を始めた元妻とケンジ。
ケンジは童貞でした。
しだいに元妻はケンジを自分好みの男に調教したいと思うようになりました。
ついに会う決心をした元妻でした。
最初は上野で頻繁に会っていましたが、ホテル代が持たなくなりました。
ついには南柏の自宅につれこむようになったのです。
私は会社が渋谷なので、朝出かけて帰りはいつも終電で深夜1時30分帰宅という生活でした。
息子が学校に行っている時間に連れ込んでいましたが、だんだんエスカレートして晩御飯を食べて、息子が家にいてもおかまいなしに連れ込むようになりました。

昨日7月4日、所長の誕生日は誰からも祝福されないままさびしくひっそりと幕を閉じました。
今朝小出由華ブログを見るとお祝いコメントが・・・・・。
今年一年いい年にするぞ!!!
由華ありがとう。。。
小出由華OA情報
7月6日(木)18:30〜19:00 テレビ東京「極楽とんぼのこちらササキ研究所」
7月24日(月)24:45〜25:15 テレビ朝日「ガチンコ視聴率バトル」
スカパー721、739で「ウゴウゴルーガ」再放送中!

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月16日(深夜の電話)
普段の生活で元妻の呼ばれ方は「奥さん」、息子の学校の関係者からは「リョウ君のお母さん」と呼ばれます。
自分の存在がないと思い、自分を取り戻すこと、自分の為に生きていくこと、を決心したのです。
鬱病だった元妻の少しでも気晴らしになればと私はIBMのAptivaを購入して入力の仕事を依頼しました。
ところが元妻は入力は全くしないでチャットにはまっていました。
当時ダイアルアップ接続だったので通信費がひとつき3万円を軽く超えていました。
チャットの相手は何人かいたようだが、一番多かったのが上智大2年生のケンジでした。
まだ20歳。彼も鬱病でした。
しだいにふたりはチャットの中で恋に落ちていったのです。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月15日(運命の出会い)
『私の名前はリツコです。小5と小1の息子達と三人で暮らしてます。今、転職と引っ越しを考えてます。なんなら住み込みの家政婦でもいいですよ。とりあえず電話で話しませんか?外回りだからいつかけても大丈夫ですよ。090********』
いきなり携帯番号が入力してありました。
早速電話してみました。
「ただいま電話に出られません。メッセージをどうぞ。」留守電でした。
そこで私は、
「また電話します。」とメッセージを残しました。
夕方、メールが着信しました。
リツコからです。
『さっき電話にでられなくてごめんなさい。今日、夜でかけますので12時以降だったら帰りますのでよかったらその時電話ください。』
私は深夜12時に電話してみました。

【この物語は2002年7月8日交通事故で他界したリツコとの記録です】
2002年5月15日(運命の出会い)
出会い系サイトの掲示板に『ばついちこぶつきです。運命の人探してます。』というメッセージを書き込みました。すると一通のメールがきました。
『はじめまして、よかったらメールください。お友達以上♪になれたらいいですね。』「りーおん」というハンドルネームの二十九歳の女性から携帯アドレス入りの返事がきました。
生まれて始めて登録した出会い系サイトの初めての相手。
いったいどんな人なのか。期待に胸を膨らませて教えられた携帯のアドレスにメールしました。
『はじめまして。小5の息子と二人で暮らしてます。友達以上♪になれたらいいですね!』
すると、早速返事がきました。